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東京高等裁判所 昭和58年(ネ)1673号 判決 1985年7月19日

控訴人

株式会社清水銀行

右代表者

佐々木哲雄

右訴訟代理人

河野富一

河野光男

杉山利朗

尾崎昭夫

武藤進

額田洋一

被控訴人

小松富代

右訴訟代理人

大蔵敏彦

同復代理人

久保田治盈

事実

控訴人は主文同旨の判決を求め、被控訴人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張は原判決の事実摘示と同一(ただし、原判決三枚目裏三行目の「、本件」から五行目の「した。」までを「たが、同年一一月六日、被控訴人から総合口座取引解約の申出があつたので、控訴人は、前記取引規定上の約旨に従つて本件貸付金債権と本件定期預金債務とを対当額で相殺したものである。」と改める。)であり、証拠関係は本件記録中の各書証目録・証人等目録記載のとおりであるから、いずれもこれを引用する。

理由

一被控訴人主張の請求原因事実はすべて当事者間に争いがない。

二そこで、以下、控訴人の抗弁について判断する。

1<証拠>を総合すると、次の各事実が認められ、<証拠>中、この認定に反する部分は採用できず、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

(一)  被控訴人は、昭和五二年三月ごろ、控訴人銀行草薙支店において、控訴人との間で、いわゆる総合口座取引を行う旨の契約を締結した(以下、右契約による取引を「本件取引」という。)が、ここにいう総合口座とは、普通預金、定期預金及び定期預金を担保とする当座貸越を組み合わせた取引口座であり、これらの取引につき一冊の総合口座通帳が発行されるものであるところ、本件定期預金は右契約の成立により開設された被控訴人の総合口座(総合口座に組み込まれた定期預金口座)に預け入れられたものである。

(二)  本件取引契約の締結にあたり、被控訴人がこれによることを承諾した控訴人作成の総合口座取引規定(以下「本件取引規定」という。)には次のような定めがあり、本件取引につき控訴人から発行された被控訴人名義の総合口座通帳(以下「本件通帳」という。)にも、その大要が記載されていた。その内容が全国銀行協会連合作成のひな型に則つた、総合口座取引規定として一般的なものであることは、当裁判所に顕著なところである。

(1) 普通預金について、その残高を超える払戻しの請求または各種料金等の自動支払の請求があつた場合には、本件取引の定期預金を担保に、その九〇パーセント又は金一〇〇万円のうち少い金額の範囲内で不足額を当座貸越として自動的に貸出し、普通預金へ入金のうえ、払戻し又は自動支払する。なお、右貸越金の担保のため、右定期預金について金一一二万円の限度で根質権が設定される。

(2) 普通預金は、所定の請求書に届出印鑑により記名押印して通帳とともに提出することによつて、契約店(本件の場合は草薙支店)のほか、控訴人の本・支店いずれの店舗においても、払戻し(当座貸越を利用した普通預金の払戻しを含む。)を受けることができる。但し、契約店以外での払戻しは、通帳に押捺された印影につきあらかじめ届出印鑑との照合手続を受けた場合に限られる(被控訴人はこの届出照合手続を経ていた。)。

(3) 本件取引において、請求書、諸届その他の書類に使用された印鑑を届出の印鑑と相当の注意をもつて照合し、相違ないものと認めて取扱つたうえは、それらの書類につき偽造、変造その他の事故があつても、そのために生じた損害について控訴人は責任を負わない。

(4) 控訴人が本件取引による債務を履行しなければならない場合に貸越元利金等があるときは、右貸越元利金等と本件取引の定期預金とを相殺することができ、控訴人は事前の通知及び所定の手続を省略して右定期預金を払戻し、貸越元利金等の弁済にあてることができるものとする。

(三)  さらに、被控訴人からキャッシュディスペンサー用カード(以下「CDカード」という。)の発行を受け、被控訴人の現金自動支払機により本件取引の普通預金払戻し(前記当座貸越に係る場合を含む。)を受けることもできていた。

(四)  被控訴人は、本件通帳と届出印鑑を自宅のたんすの引出に保管していたものであり、昭和五六年一〇月四日に右通帳の存在を確認したが、同月六日、同通帳及び届出印鑑が何者かによつて持ち出され、失われていることに気付き、控訴人に対し同日午前中にその旨を届け出た。

(五)  しかし、右届出前の同月五日午後二時ごろ、本件通帳と届出印鑑を所持した三五歳から四〇歳位の、右通帳及び印鑑を盗取した者と目されるサラリーマン風の男(以下「本件来店者」という。)が契約店でない控訴人の静岡支店を訪れ、口頭で本件定期預金を解約したい旨を申し出た。これに対し、同支店行員杉山裕一郎は、四日後に迫つていた満期まで待てない理由を尋ねたが、本件来店者が「ちょっと使いみちがあるから」と答えただけで、右解約の申出を撤回しなかつたので、契約店以外では定期預金の解約に応じていない旨の控訴人の取扱内規を説明して静岡支店における解約を拒絶した。

(六)  本件定期預金の解約を拒絶された本件来店者は、次いて前記杉山に対し、本件取引の貸越限度額まで引き出したいと申し入れ、本件通帳に記帳されていた普通預金残高が金二七万二二一八円であつたことと、当座貸越に関する本件取引規定に基づいて、金一二七万円の払戻し請求をしたが、右残高の記帳は同年九月一日現在のそれを示すものであつて、その後同月二九日までの間にCDカードにより右記帳残高を金九万七七八二円超える払出しが行われており(換言すれば、右超過金額に相当する当座貸越が行われており)、したがつて、本件取引規定上、右請求時(同年一〇月五日)における貸越限度額は金九〇万円余りとなることが発見されたので、右杉山がその旨を告げたところ、本件来店者は「女房のやつ、おろしやがったな。」などと言いながら改めて金九〇万円の払戻し請求をした。そこで、控訴人は本件取引規定に基づき右請求に応ずることとし、右金額相当の当座貸越による貸出金を普通預金口座に振替入金のうえ、本件来店者に対して金九〇万円を払い渡した(以下、右払渡しを「本件貸出し」という。)。なお、本件来店者は、右各払戻し請求にあたつては控訴人備付けの所定用紙に届出印鑑を押捺するなどして被控訴人名義の「普通預金支払請求書」を作出し、本件通帳と共にこれを前記杉山に提出したもので、担当者による印鑑照合により届出印鑑の印影と一致することが確認されたうえで本件貸出しの手続がとられた。

(七)  控訴人静岡支店と被控訴人及び本件来店者とは取引がなく、杉山を含む同支店行員も被控訴人及び本件来店者と面識がなかつたが、杉山は、本件来店者が本件通帳及び届出印鑑を所持していたことと、来店した際の同人の言動等から、同人が被控訴人の配偶者その他、被控訴人から前記払戻し等の権限を授与されている者であると信じていたもので、本件来店者につき、無権限で定期預金の解約や本件貸出しの申込みをしているのではないかと疑われるような特異な情況は認められなかつた。

(八)  被控訴人は、昭和五六年一一月六日、控訴人に対し、本件取引及び本件定期預金の解約を申し出た。そこで、控訴人は、控訴人の貸越金債権と被控訴人の本件定期預金債権について、本件取引規定に基づく相殺処理手続をした結果、本件定期預金のうち本件貸出金に相当する金九〇万円については、被控訴人の求める払戻しに応じられないこととなつた。

2叙上認定の事実によれば、控訴人は、本件来店者から本件取引規定に基づく当座貸越を利用した本件貸出しの申込みを受け、同来店者が本件通帳と届出印鑑を所持していたことのほか、本件取引名義人であり、本件定期預金の預金名義人である被控訴人の配偶者であるかのように振舞つたことなどのため、何ら権限のない同人を被控訴人から本件貸出しに関する権限を授与された者と誤信し、右定期預金を担保とし、かつ、同定期預金と相殺する予定のもとに、当座貸越による振替入金に基づき同人に対し金九〇万円の本件貸出しをし、その後、担保権実行の趣旨で右貸越金債権を自働債権とし、右定期預金債権を受働債権として、本件取引規定上の約旨に従う相殺の処理手続に及んだものということができる。そして、このような場合には、右の、相殺を予定してなされた本件貸出しに伴う貸越金との相殺の効力に関する限り、これを実質的に本件定期預金の期限前解約による払戻しと同視するのが相当であるから、控訴人が、本件貸出しにあたり、本件来店者を右貸出しを受ける権限を有する者と認定するにつき、金融機関として負担すべき注意義務を尽くしたと認められるときには、民法四七八条の規定を類推適用し、右貸出しを受けるについての表見有権限者というべき右来店者を通じてなされた本件貸出しの前提となつた貸越金債権と担保に供された本件定期預金債権との相殺をもつて、被控訴人に対抗することができるものと解するのが相当である。

3そこで、控訴人が右説示の注意義務を尽くしたかどうかについて検討するに、すでに認定したとおり本件来店者は本件通帳と届出印鑑を所持し、同印鑑を使用して作出した「普通預金支払請求書」を右通帳と共に控訴人の担当行員(杉山裕一郎)に提出したが、その当時、右通帳等の事故届はまだ提出されていなかつたものであるところ、<証拠>に、もはや公知の事実ともいいうる一般家庭における預金取引の利用状況を総合すれば、左記(一)ないし(四)の事実が認められ、これらの事情に加えて、印鑑照合等による免責についての本件取引上の約旨や預金の払戻し業務が定例かつ画一的な大量業務であることも斟酌すると、被控訴人主張のように控訴人(担当行員)が前記認定の本件来店者の一連の言動に不審を抱き、同人の権限の有無をさらに何らかの方法で確認すべき注意義務があつたとまではいえず、本件貸出しにあたつての控訴人の注意義務は、本件通帳、届出印鑑の所持、届出印鑑を使用した支払請求書の提出、事故届の未提出が確認されたことにより尽くされたものと認めるのが相当であり、これらの点に関する前示事実関係からすれば、控訴人について右注意義務懈怠の過失はなかつたものということができる。

(一) 家族間等において、ある者が他の者の包括的許諾を受け、或いはある者が形式上他の者の名義を用いて契約をするなどの事情から、男性が女性名義の、又は女性が男性名義の通帳、印鑑を持参して、預金の払戻し、解約等のため来店することは、金融機関の日常業務でしばしば遭遇することである。

(二)  定期預金の期限前解約は、建前上はさておき、金融機関においては、一応の説明があればこれに応ずるのが通例であり、また、本件取引規定中には、契約店以外の店舗においては定期預金の解約に応じない旨の定めはなく、内規上もかかる制限をしていない金融機関も少くない。

(三) 緊急の必要のため、間近に迫つた満期を待たずに定期預金の解約を申し出ること、又はこれに代えて総合口座取引の当座貸越限度額までの払戻しを求めることは、いずれもそれ自体は異例な事柄には属さない。

(四) CDカードにより普通預金の自動支払が行われた場合には、預金者本人においても預金残高を正確に把握していないことは珍しいことではない(本件来店者のように、定期預金解約の委託を受けて来た者として振舞つている者の場合には、払戻金から当然に差引かれる当座貸越金の有無を特に聞かされていなかつたとしても、何ら不思議ではない。)。

すなわち、本件来店者が女性名義の本件通帳と届出印鑑を持参して、契約店ではない静岡支店を訪れて定期預金の解約払戻しを求め、内規上それが許されないことを告げられると、本件取引の当座貸越限度額までの払戻しを請求し、しかもCDカードによる自動支払のため既に若干の当座貸越が生じていることを銀行側から告げられるまで知らなかつたことをもつてしては、預金者の夫然として振舞い本件貸出しを受ける手続をとつた右来店者につき、その権限の有無を疑うべき特段の事由があつたとはいえず、前述の経過からみて、本件来店者の権限の有無を疑うべき特異な情況は感得されなかったものと推認するを妨げないといわざるを得ないのである。

もつとも、当初金三〇〇万円の払戻しを受けようとして本件定期預金の解約を申し出た預金者側に真実右金額を調達する必要があるのであれば、何故遠隔地ではない(預金者の住所地に、より近いと推認される)草薙支店に回つて予定どおりの払戻しを受けようとせず、静岡支店での引出しに固執するのか、その首尾一貫を欠く態度にはいささか腑に落ちないものが感じられるといえなくはないが、来店者が折角払戻しを受ける予定で来店した以上、せめて支店で引出し可能な金員をとりあえず受取りたいとする態度に出ることも、金融機関の閉店時間午后三時まで一時間程度しか残つていなかつたことも併せ考えると、来店者の気持と資金調達の必要度次第によるところとして理解できないことではなく、そして、かような場合一般に、とりあえず総合口座取引の普通預金払戻しの方法で貸越限度額までの資金調達をはかることが定期預金全額の解約払戻しを委ねた預金者の委託の趣旨に沿わないところとは考えられないだけに、右当座貸越を利用した払戻しの請求を受けた担当行員として、それを理由に相手方の権限を疑い、より詳しく納得しうるような説明を徴する等の行為に出るのが相当であつたといえるほどの、異例不可解な来店者の態度であつたとは到底いえない。

以上のように解するときは、総合口座取引において当座貸越約款による預金払戻しの請求を受けた銀行側担当者が相手方の借受権限の有無を判定するに際し尽くすべき注意義務の程度を、普通預金取引における払戻しの場合のそれとおおむね同程度と解することになるが、軽きに失するものとは思われない。総合口座取引における当座貸越は、定期預金を担保とする貸付けであるといつても、本件取引規定に基づき、普通預金払戻しの手続がとられたことに応じ一定限度額までは自動的に行われるのであり、預金者は定期預金のうち右限度額までは、普通預金と全く同様に、日常の必要に応じ、極めて簡単な手続で、すなわち、通帳と届出印鑑さえ携行すれば、自ら又は他人に委託してどの支店ででもたやすく(CDカードを使用すれば銀行の窓口を経由することすらなく)支払等のために必要とする資金を調達することができるという利益を享受しているものであるから、払戻請求に対応する銀行側の事務処理もこれに相応するものであるべきであつて、払戻請求が当座貸越を伴うこととなるに至るや、その用途の説明を求められたり、代理人ないし使者によつて払戻請求をする場合にはその者と預金者との身分関係の開示や必要に応じては証明書類の提示まで求められることになるというのでは、たちまち銀行事務の渋滞を来たすだけでなく、前述のように一定限度額までは定期預金を普通預金と同様の簡易な方法で即座に利用しうる流動資金と考えている口座開設者側の意思にも反する結果となる。したがつて、通帳と届出印鑑の携行者から預金の払戻しの請求を受けた場合には、既に事故届が提出されていない限り、当該来店者が無権限で払戻しの手続をしているものではないかと疑うべき相当の理由の認められない以上、普通預金残額の有無に関係なく、前叙のとおり印影の同一性等を確認する義務を履践するだけで、貸越限度額までの払戻請求に応じて構わないだけでなく、むしろ、応ずべきものということができる。

本件貸出しにつき控訴人側担当者に過失があるとする被控訴人の主張は、一般の預金担保貸付けないし定期預金の期限前解約について要求される、銀行側担当者のより高度の注意義務を前提とする趣旨と解され、前示のとおり、本件来店者の態度には、いささか腑に落ちない首尾一貫性を欠くふしがあるといえなくもないだけに、本件貸出しにあたつて担当者の尽くすべき注意義務を一般の預金担保貸付けないし定期預金の期限前解約の際のそれに準ずべきものとすれば、是非とも当日静岡支店で金九〇万円の範囲ででも払戻しを受けなければならない事由につき、また預金名義人との関係やその意向につき、より詳細な説明を求め、来店者の借受権限につき納得ができるまでの審査を尽くすべきであつたとする判断も成り立つ余地があるといえるかもしれない。しかし、本件貸出しは前示のとおり銀行側の応諾義務を伴う本件取引規定に基づくものであるだけに、被控訴人の主張とは前提を異にすべきであり、前叙のような本件貸出時の事情のもとで、貸出しに先立ち、より詳細で納得の行く権限審査をなすべき注意義務を担当行員が負つていたものとする見解は、採りえないところである。もつとも、定期預金の期限前解約をする前提として払戻請求者の権限につき審査した過程で相当の疑念が生じた結果、解約を避けて総合口座の当座貸越を利用した預金払戻しの方法によろうとしたような場合は別論であり、一たん疑念が生じた以上、本来簡易な手続で払出しの受けられる取引方法に移行することによつても注意義務の軽減は認められるべきではないというべきであろう。しかし、本件貸出しは右のような疑念が生じた結果とられた方法ではなく、静岡支店において定期預金の期限前解約を拒絶したのは前示のとおり取扱内規によつたためである(拒絶前の若干の問答は解約を思いとどまらせるための営業姿勢による応対とみられる。)から、右の場合には該らない。

4以上のように考えると、控訴人は前記相殺処理をもつて被控訴人に対抗しうるものというべきであるから、本訴請求にかかる本件定期預金債権残額九〇万円は、これにより消滅したものといわざるを得ない。したがつて、引用にかかる原判決摘示の抗弁1は(同じ理由から、控訴人が本件取引規定上の免責約款の適用を前提として予備的に主張する抗弁2も)、理由がある。

三以上の次第で、控訴人に対して本件定期預金の支払を求める被控訴人の本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく、理由がないものとして棄却すべきであり、これと結論を異にする原判決は失当であつて。取消しを免れない。

よつて、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(横山 長 尾方 滋 浅野正樹)

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